こんにちは、Ruiです!

 

昭和史に残る大事件の一つに『あさま山荘事件』があります。

 

『あさま山荘事件』は、1972年2月19日から2月28日にかけて、連合赤軍の犯人5人が長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所『浅間山荘』で人質をとって立てこもった事件なのですが、当時の事件の様子はテレビ中継もされ、総世帯視聴率およそ90%という驚異的な視聴率を記録するなど、日本中で大きな注目を集めました。

 

そこで今回は、『あさま山荘事件の連合赤軍とは?犯人の顔画像や名前・現在はコチラ!』と題して、連合赤軍とは一体何なのか、そして逮捕された犯人5人の名前や顔画像と現在まで迫ってまとめていきたいと思います。

 

それでは早速、本題へ入っていきましょう!

 

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『あさま山荘事件』の概要と連合赤軍について

 


画像引用元:http://book.asahi.com

 

『あさま山荘事件』は、1972年2月19日から2月28日にかけて、連合赤軍の犯人5人が長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所『浅間山荘』で人質をとって立てこもった事件として日本中で大きな注目を集めた昭和史に残る大事件。

 

『連合赤軍』とは一体どんな組織なのでしょうか?

 

あさま山荘事件の概要と共に連合赤軍を併せてお伝えしていきたいと思います。

 

この事件を起こした連合赤軍は、1971年から1972年にかけて活動していた日本のテロ組織、新左翼組織の一つです。

 

共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成された組織が連合赤軍なのですが、合流する間の両派は連続強盗事件や猟銃店を襲い銃や弾薬を手に入れるなど、凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていました。

 

そのため都市部などでは警備が強化され、両派のメンバーは群馬県の山岳地帯に警察の目から逃れるための拠点として『山岳ベース』を構え、連合赤軍を旗揚げしたのです。

 

しばらくの間、潜伏と逃避行を続けていましたが、ついに警察の山狩りが始ったことで外部からの援助などが途絶え、組織の疲弊が進行。

 

さらに、山岳ベースでは仲間内での相手の人格にまで踏み込んだ強烈な思想点検や討論まで発展するようになり、やがて思想改革と革命家になるための総括と称した『山岳ベース事件』が起こるなど、内部崩壊が深刻化していました。

 

その後、同組織が直前まで使用していたベースの跡地が警察の山狩りで発見したことをラジオで知った幹部は、群馬県警の包囲網が迫っていると危険を感じ、山越えに隣接する長野県に逃げ込むことを決断します。

 

その頃、資金調達のため上京していた最高幹部の2人がベースに戻ると、山狩りをしていた警察官に見つかり、1972年2月17日に逮捕されます。

 

続いて、2月19日には、食料の買い出しに出かけていたメンバー4人が軽井沢駅で逮捕。

 

最終的には、元々29名いた連合赤軍のメンバーは、12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕されました。

 

そして、あさま山荘事件の発生直前には、連合赤軍のメンバーは残すところ5名のみとなったのです。

 

5名のみとなった連合赤軍のメンバーは、2月19日の正午ごろに長野県軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき山荘に侵入。

 

そこで食料を漁るなどして休憩をしていましたが、捜査中の長野県警機動隊が近づいてきたため、パトカーに向けて発砲します。

 

連合赤軍のメンバーは銃で乱射しながら機動隊の包囲を突破し、さつき山荘を脱走すると、自動車のある家を探す途中で浅間山荘に逃げ込み、そこで管理人の奥さんを人質として立てこもり、ここから約10日間の『あさま山荘事件』が始まったのです。

 

人質を利用して警察に要求するかと思いきや、何もしない連合赤軍のメンバー。

 

犯人や人質の親族による説得などが続きましたが、犯人たちは家族を利用したことに腹を立て、銃で発砲するなどの攻撃を行いました。

 

また、犯人グループは、管理人の奥さんの代わりに人質になりたいと申し出た民間人を至近距離から射殺します。

 

2月25日から放水・投石・疑音作戦で犯人グループを疲弊させ、2月27日に鉄球を山荘にぶつけて階段などを破壊させました。

 

2月28日には投稿勧告しますが、犯人はまったく応じなかったため、機動隊による突入作戦が開始しました。

 

機動隊と犯人グループの激しい銃撃戦が行われますが、放水や催涙ガス弾を打ち込みバリケードが破られ、機動隊が突入。

 

そして遂に、犯人グループが逮捕され、人質は無事に解放されたのでした。

 

 

犯人5人の名前・顔画像と現在は?

 

あさま山荘事件を起こして逮捕された犯人5人の現在はどうなっているのでしょうか?

 

また、犯人5人の名前や顔画像も調べてまとめてみました。

◆坂口 弘


画像引用元:http://dokujyoch.net/

名前:坂口 弘(さかぐち ひろし)
生年月日:1946年11月12日
出身地:千葉県

 

連合赤軍のナンバー3だった坂口弘は、確定死刑囚として2018年6月現在も東京高地所に収監中です。

 

1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際に釈放リストに名前が挙がったのですが、『私の闘争の場は法廷』『もはや暴力革命を志す時期ではない』との主張で、自ら釈放を拒否したようです。

◆坂東國男


画像引用元:http://shimeitehai.jp/detail_41.html

名前:坂東國男(ばんどう くにお)
生年月日:1947年1月10日
出身地:滋賀県大津市

 

坂東國男は、1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際に、超法規的措置により釈放され国外脱出し、日本赤軍に参加。

 

現在も連合赤軍事件だけでなく、日本赤軍としてダッカ日航機ハイジャック事件に関与した罪も加わり、警察庁に指名手配中であると同時に国際手配されているとのことです。

 

公安当局によると、坂東國男は基本的に中東に拠点を置き、中国やルーマニア、そしてネパールでの入国の形跡が確認されているようですが、実際のところ消息及び現在も生存しているかどうかは不明だそうです。

◆吉野雅邦


画像引用元:http://citizen-journal.link

名前:吉野雅邦(よしの まさくに)
生年月日:1948年3月27日
出身地:東京都杉並区

 

法廷で無期懲役を言い渡された吉野雅邦は、1983年から現在に至るまで、千葉刑務所で服役しています。

 

2012年時点では、高齢者と障害者を収容する『工場』(実質は刑務所内の介護施設)での介助作業だったり、受刑者が職業訓練として受ける陶芸の指導補助を行っているとのことです。

◆加藤倫教


画像引用元:https://www.youtube.com

名前:加藤倫教(かとう みちのり)
生誕:1952年
出身地:愛知県刈谷市

 

山岳ベース事件で長兄が殺された時に、弟の加藤元久と逃げだそうとしたが果たせず逃亡の最中、あさま山荘に立てこもり、警察と9日間に渡る銃撃戦を行っていました。

 

事件当時は弟と共にに実名は伏せられて、名前の表記は『少年A』と報道され、1983年2月には懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役していましたが、1987年1月に仮釈放されます。

 

現在は、実家の農業を継ぎ、そして野生動物・自然環境保護の団体に所属して活動しており、それらの団体で役員を務めているとのことです。

 

また、現在は自由民主党を支持し、自民党に入党しているようです。

◆加藤元久


画像引用元:http://citizen-journal.link

名前:加藤元久(かとう もとひさ)
生誕:1956年
出身地:愛知県刈谷市

 

加藤倫教の弟である加藤元久が逮捕された当時16歳だったため、『少年B』と少年法で実名は伏せられ、保護処分扱いとなりました。

 

加藤元久に関する情報が少ないため、現在はどこで何をしているのか、また生存しているのか分かりませんでした。

 

 

まとめ

 

今回は、『あさま山荘事件の連合赤軍とは?犯人の顔画像や名前・現在はコチラ!』と題して、連合赤軍とは一体何なのか、そして逮捕された犯人5人の名前や顔画像と現在までをまとめて紹介させて頂きました。

 

1960年代以前の日本では現代と違い、学生や労働者による政治運動や活動が盛んに行っていたと言われており、学生を中心とした新左翼諸派の一つに連合赤軍が昭和史に残る『あさま山荘事件』を起こしてしまいました。

 

この事件が起きてから45年以上が経過していますが、今後同じような悲惨な事件が起こらないように、忘れないよう記憶にとどめていく必要があると思いました。

 

それでは、今回はこれで以上とさせて頂きます。

 

最後まで閲覧して頂きましてありがとうございました。

 

Rui。

 

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