こんにちは、Ruiです。

 

1979年1月26日に大阪の三菱銀行北畠支店で起きた、日本犯罪史上最も凶悪で残虐的な立てこもり事件だったと言われている『三菱銀行人質事件』。

 

事件発生から40年近くの時間が経過していますが、『三菱銀行人質事件』とはどういう事件だったのでしょうか?

 

また、犯行に及んだ梅川昭美の動機や人物像、そして人質に遭われた被害者の方々の現在について調査したのをまとめてみました。

 

それでは早速、本題へ入らせて頂きます。

 

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『三菱銀行人質事件』の概要

 


画像引用元:https://matome.naver.jp

 

日本犯罪史上最も凶悪で残虐的な立てこもり事件だと言われている『三菱銀行人質事件』は、1979年1月26日の15時頃に大阪の三菱銀行北畠支店で発生しました。

 

帽子を被り、顔にはサングラスにマスク、そしてゴルフバッグを背負った犯人の梅川昭美が、銀行の北側に位置する玄関から銀行内に侵入し、ゴルフバッグの中に入れていた猟銃で2発、天井へ向け発砲しました。

 

梅川昭美が犯行で『ニッサンミロク(モデル1800SW)』という猟銃を使用していたようです。

 

梅川昭美が所持していたという猟銃の写真がこちらになります。

 


画像引用元:http://ww5.tiki.ne.jp

 

梅川昭美が天井へ向け猟銃で発砲した後、5,000万円の現金を要求しました。

 

そこで、非常電話で通報しようとした男性銀行員が1人目の犠牲者となります。

 

この際に逃げ出した主婦からの助けを求められた警察官が単独で乗り込みましたが梅川昭美に銃撃され2人目の犠牲者となります。

 

その直後に、銀行からの通報で駆け付けた警察官2人が突入しますが、梅川昭美に銃撃されてしまい、1人は防弾チョッキで助かり生存、もう1人は命を落としてしまい、3人目の犠牲者が出てしまいました。

 

ここから、銀行強盗から立てこもり事件へと発展したと言われています。

 

『三菱銀行人質事件』では当初、銀行内にいた客12人、銀行員の31人の合計43人が人質になっていましたが、梅川昭美が親子連れと妊婦の4人の人質を解放。

 

その時点で人質は39人となり、そこから梅川昭美の日本犯罪史上最も凶悪で残虐的な立てこもり事件が始まったのです。

 

その初めに、『三菱銀行人質事件』の最後の犠牲者になってしまった支店長が梅川昭美に撃たれ命を落としてしまいます。

 

事件発生の翌日になると、人質になっていた客が少しずつ解放され、同日のラジオで食事や酒、栄養ドリンクなどが要求され始め、梅川昭美の母親が現場に到着し投降の説得が行われます。

 

そして、事件発生3日目の1月28日早朝、梅川昭美が居眠りしているところを警察隊が突入し、梅川へ向けて銃で発砲。

 

そこで、42時間にも及ぶ『三菱銀行人質事件』は解決に至りました。

 

ちなみに、梅川昭美は搬送先の病院で亡くなっています。

 

 

『三菱銀行人質事件』梅川昭美の動機とは?

 


画像引用元:https://matome.naver.jp

 

『三菱銀行人質事件』では、4人もの死亡被害者を出してしまい、最終的に犯人の梅川昭美も警察隊によって射殺されて終わった訳ですが、なぜこのような凶悪で残虐的な立てこもり事件が発生してしまったのでしょうか?

 

犯行前、梅川昭美には501万円の借金があり、その借金返済が主な動機とも言われています。

 

しかし、『三菱銀行人質事件』で梅川昭美のとった行動があまりにも猟奇的であったことから、主な動機であった言われている借金の返済をするためだけの行動ではなかったようです。

 

なぜなら、梅川昭美が起こした行動の異常さは公開できないくらいの残虐的まりないものだったからです。

 

梅川昭美は、1976年に公開された『ソムドの市』という映画に強く影響されていたようで、実際に『三菱銀行人質事件』の犯行の最中にも、この映画のことを梅川は口走っていたとも言われています。

 

梅川昭美の犯行動機は借金返済だったようですが、通常では考えられないような梅川の犯行の一部始終に、『特殊な性交性癖』『耳を切るという儀式』『人肉食』を色濃く出していることから、精神障害を抱えていたのではないかと思われます。

 

 

『三菱銀行人質事件』梅川昭美の人物像は

 

梅川昭美の人物像について見ていきたいと思います。

 

梅川昭美は、1948年3月に広島県大竹市に生まれました。

 

梅川昭美には姉がいたのですが、生まれる前に夭折。

 

8歳の時に父親が脊髄を患い歩行困難となり退職し、母親は梅川昭美が小学校5年生の時に離婚して家を出ていき、幼少時代が極貧の中で暮らしていました。

 

中学校時代、梅川昭美は喫煙や暴行等を繰り返し、また補導が度重なり外泊も頻繁になります。

 

中学校を卒業した後、高校へ進学しますが、ほとんど学校には通わず、梅川昭美はバイクを盗んで逮捕されて入学して4ヶ月で退学になります。

 

そして、梅川昭美が15歳の時に、以前アルバイトをしていた広島県大竹市内の土建業者宅に強盗目的で侵入し、家人の妻をナイフで刺して殺害し、現金や通帳などが入った金庫を奪いましが逮捕され、山口の特別少年院へ送致収容されました。

 

この事件が、梅川昭美が犯した最初の犯行になります。

 

供述において梅川昭美は『(ナイフは)脅すために持っていた』『(金をとるのに)邪魔だから殺した』『他の奴らはぬくぬくと暮らし、なんで俺だけが貧乏して苦しまないかん』などを発言していたようです。

 

しかし、犯行時に指紋が残らないように手袋を着用していたり、犯行の前には何度も下見をしたりと、計画性を見せていました。

 

供述で発言していたことと、計画性を見せている行動に大きな矛盾があることから、このときに既に後の『三菱銀行人質事件』と共通する梅川昭美の狂気性が見られていたのでした。

 

 

『三菱銀行人質事件』の被害者の現在は?

 

『三菱銀行人質事件』は、日本犯罪史上最も凶悪で残虐的な立てこもり事件でした。

 

 

事件発生から40年近くの時間が経過しましたが、人質となった被害者の方々の現在はどうなのでしょうか?

 

人質となった被害者の1人である竹内貞夫さんは、当時47歳で銀行の相談窓口係を務めていました。

 

事件の時、竹内貞夫さんは梅川昭美から2メートルの至近距離から銃撃され、また梅川の指示を受けた同僚から左耳を削がれるという重症を負いながらも、命を落とさずに助かることができました。

 

2014年に、竹内貞夫さんがテレビのインタビューを受けたときに現在の心境を語っていました。

 

竹内貞夫さんの左耳を削いだ銀行員の同僚に対して、『恨みはない。彼も辛かったんだろう』と言い、『よう思い切って(耳を)やってくれたなと。おかげで助かったんやで』と語られていました。

 

『三菱銀行人質事件』はかなり残忍で真実を口外するものもはばかれるほどの衝撃度のある事件でしたので、人質に遭われた被害者の方々は現在も心的ストレスをを抱えられていると思います。

 

 

まとめ

 

今回は、1979年1月26日に大阪の三菱銀行北畠支店で起きた『三菱銀行人質事件』の概要から、犯行に及んだ梅川昭美の動機や人物像、そして人質に遭われた被害者の方々の現在について調査したのをまとめて紹介させて頂きました。

 

事件発生から40年近くの時間が経過した現在も、人質を経験した被害者の方々の心の健全さは推察することしかできません。

 

もう2度と常軌の外れた凶悪で残虐的な立てこもり事件の再発が起こらないことを祈ると同時に、この事件で亡くなれた被害者の方々のご冥福をお祈りいたします。

 

それでは、今回はこれで以上とさせて頂きます。

 

最後まで閲覧して頂きましてありがとうございました。

 

Rui。